聖火リレーと「暴力的な抗議」
中国によるチベットでの対応をめぐり、オリンピックの聖火リレーに対する「暴力的な抗議」が連日、テレビや新聞で報じられる。
で、テレビで放送される映像を見ていると、その抗議とやらがどれだけ「暴力的」かというと、群集の間からチョロチョロと人が駆け寄り、横断幕を広げたり、消火器で火を消そうとしたり、あるいはトーチを奪おうとしてたちまち取り押さえられるといった「暴力的抗議」なのだ。
誰かを殴りつけるわけでもなく、凶器を持って襲いかかるわけでもなく、爆弾を爆発させるわけでもない。抗議のために使われる道具と言えば、およそ武器だの凶器だのとは呼べないものばかりで、ランナーや警備スタッフに危害を加えようとしてもいない。器物を破壊するわけでもない。彼らは、せいぜい若干の二酸化炭素排出を伴う高熱の酸化反応を止めようとしているだけだ。
「暴力」の定義はいろいろ難しい。なぜならば「暴力」という言葉自体に価値判断が含まれているからだ。辞書などには「(1)乱暴な力。無法な力。「—を振るう」「—に訴える」(2)物理的強制力を行使すること。特に、それにより身体などに苦痛を与えること。(大辞林)」などと定義されているが、ぼくは「暴力」を「悪い力のこと」と定義できると思う。合法的な範囲内で何らかの行動をすることは「実力行使」であって、「暴力」とは呼ばない。違法または、悪い目的で使われたと判断するとき、その「実力行使」は「暴力」と呼ばれる。
テレビの画面に映し出されるトーチを奪おうとする人権活動家の映像を見て思い出すのは、日本の国会だ。与党による強行採決を阻止すべく、野党議員が議長席に駆け寄ってマイクを奪おうとするのはすっかりお馴染みのシーンだが、こうした強行採決をめぐる攻防の場面を日本のマスコミが「野党は暴力的な手段で妨害しようとした」と伝えたという記憶はない。
しかし、ある時、外国人からこうした日本の国会での攻防の場面について「日本は先進国だと思ったのに、国会の場でこんな野蛮な暴力がまかり通るのか」とあきれた表情で言われたことがある。確かに、これは「暴力」と言っていいのだが、おそらくテレビのニュース番組でアナウンサーが「野党は暴力的な妨害を試みました」なんて言ったら、それこそ野党から猛烈な抗議の嵐にさらされるだろう。
こうした実力による妨害を伴う手段が抗議の手段として好ましいかどうかの判断はともかく、実力による抗議行動は存在するし、社会的な文脈によって許容されたり、許容されなかったりする。
「反対派による激しい抗議」と「反対派による過激な抗議」というフレーズを考えてみてもいい。少なくとも民主的な国家では、抗議する権利は尊重されなければならない。いくら激しくても、だ。しかし抗議という単語に「過激」という形容詞が付いた時、それは権利の行使を否定する「悪い抗議」を暗示させてしまう。
主催者や警備当局が、実力行使を伴う抗議を「暴力的」と言うのであれば、その心情は理解できる。なぜなら、主催者にとってイベントの円滑な進行が妨げられることは「悪いこと」であり、警備当局は円滑な進行が仕事なのだから。
しかし、メディアが実力行使を伴う抗議の場面を映し出して、何も考えることなく条件反射的に「暴力的」だとか「過激」といった価値判断を含んだ言葉で説明してしまうことは、決して好ましいことではない。その行動の背景や文脈を無視して一足飛びに否定的な価値判断を情報の受容者に強制することだからだ。
出来事の背景や文脈は、決して簡単に判断できることではない。そしてしばしば、メディアは価値判断をするにあたり、主催者や警備当局者が提供する価値基準に安易に追従してしまう。
メディアには、手近なニュースソースからの一方的な価値判断を受け入れるのではなく、さまざまな背景や文脈を独自に判断した上で、伝えようとする出来事について判断することが求められている。そうしたプロセスを経て「暴力的な抗議」と伝えるのか、「実力行使を伴う抗議」と伝えるのか、あるいは「正当な抗議」と伝えるのか、それはそれぞれのメディアの立ち位置というものだろう。
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